享保から寛保
三代目
市川團十郎
十五歳で継ぎ、二十二歳で逝く。名跡に空白が生まれる
- 生没年
- 1721–1742-02-27
- 團十郎を名乗った期間
- 1735-11–1742-02-27
- 襲名時の年齢
- 15
- 前名・俳名
- 市川升五郎(初舞台の名)

30秒で分かる、この代の團十郎
初代の高弟・三升屋助十郎の子に生まれ、五歳で二代目の養子となった。享保二十年(1735)、市村座の顔見世で十五歳の襲名。同じ興行で養父は二代目海老蔵となる。寛保二年(1742)、大坂から病を得て戻り二十二歳で没し、以後十年余り團十郎の名跡は空白となった。
受け継いだもの
成田屋公式は、享保六年(1721)に初代團十郎の高弟・三升屋助十郎の子として生まれ、享保十年(1725)、五歳で二代目團十郎の養子となったと記す。名跡は血筋ではなく、門弟の家から養子として渡された。
享保十二年(1727)、中村座の顔見世に市川升五郎と名のって七歳の初舞台。享保二十年(1735)、市村座の顔見世で三代目市川團十郎を襲名した(十五歳)。日本芸術文化振興会は、江戸歌舞伎では俳優が芝居小屋と一年ごとに契約を結び、十一月の顔見世興行が一座の顔ぶれを披露する最も重要な年中行事だったと説明する。
初代が起こし、二代目が完成させたとされる荒事を、養父の存命中に受け継ぐ立場にあった。成田屋公式は、二代目が『助六』『矢の根』『毛抜』などを創始して家の芸を確立した経緯を記している。
生み出した・変えた・復活させたもの
伝わらない、二十二年
成田屋公式は、後継者としての将来を嘱望されながら二十二歳の若さで夭逝した三代目は、ついに役者としての大成を見ることがなかったと記す。この代が新たに創始した芸や演出として確認できるものは、参照した公的資料には見当たらない。推測で補うことはしない。
成田屋公式は、その予想外の早過ぎる死により、以後十年余りの間、市川團十郎の名跡は空白期間を持つことになると記す。襲名が当然の連続ではないことを、この代は結果として示している。
代表的な芸・役・演目
中村座の顔見世での初舞台
享保十二年(1727)、市川升五郎と名のって七歳の初舞台。成田屋公式は演目名を記していない。
享保二十年(1735)十一月、三代目市川團十郎を襲名(十五歳)。同じ興行で養父が二代目海老蔵に、松本七蔵が二代目松本幸四郎になっている。
大坂への旅と、江戸への帰還
寛保元年(1741)、養父の海老蔵とともに大坂へ上ったが、すぐに発病して江戸へ戻ったと成田屋公式は記す(二十一歳)。
その時代の歌舞伎
江戸歌舞伎の一年は十一月の顔見世に始まり、俳優は芝居小屋と一年ごとに契約を結んだと日本芸術文化振興会は説明する。三代目の初舞台も襲名も、この顔見世の場で行われている。同じ頃、近松門左衛門以来の流れを受けて人形浄瑠璃の作品が次々と歌舞伎へ移され、義太夫狂言と呼ばれる一群が育っていた。踊りの面でも、長唄を伴奏とする「所作事」がまず女方の芸として形をとりはじめる。官許の大劇場は正徳四年(1714)以来、中村座・市村座・森田座の三座であった。
同じ頃、世の中では
- —芸と演目
顔見世という年中行事
日本芸術文化振興会は、江戸歌舞伎では俳優が芝居小屋と一年ごとに契約を結び、その契約の始まる十一月の興行が「顔見世」と呼ばれて、一座する俳優の顔ぶれを披露する最も重要な年中行事だったと説明する。『暫』もこの顔見世の慣習のなかから生まれた演目である。
- —芸と演目
人形浄瑠璃の作品が歌舞伎へ移されていく
日本芸術文化振興会は、近松門左衛門の作品の多くが歌舞伎へ移されて重要な演目となり、人形浄瑠璃の作品を歌舞伎でも演じる流れの先駆けとなったと記す。人形浄瑠璃が全盛期を迎える十八世紀半ばには、人気作が次々と歌舞伎へ移されることになる。
- —芸と演目
「所作事」が女方の芸として形をとる
日本芸術文化振興会は、歌舞伎が発祥から備えていた踊りとしての側面が音楽の流行とともに進展し、「所作事」「振事」と呼ばれる舞踊劇が、長唄を伴奏として、はじめは女方による芸として形成されたと記す。
時代との接点
- 1735-11芸と演目
ひとつの顔見世で、三つの名が動く
成田屋公式は、享保二十年(1735)十一月の興行で、二代目が海老蔵に、升五郎が三代目團十郎に、そして松本七蔵が二代目松本幸四郎になったと記す。この七蔵が、のちに十二年の空白を経て四代目團十郎となる人物である。
- 1741芸と演目
養父とともに上方へ
寛保元年(1741)、養父の海老蔵とともに大坂へ上ったが、すぐに発病して江戸へ戻ったと成田屋公式は記す。海老蔵は大坂で『毛抜』の粂寺弾正を初演し、実事の芸が上方でも認められた一方、その滞在中に三代目の訃報を聞くことになる。上方と江戸を俳優が行き来した時代の、ひとつの結末にあたる。
この代から、次の代へ
寛保二年(1742)二月二十七日、二十二歳で没する。養父の海老蔵は「梅散るや三年飼ふたきりぎりす」の句を手向けた。以後十年余り團十郎の名跡は空白となり、宝暦四年(1754)に二代目松本幸四郎が養子に迎えられて四代目が立つまで、名は継がれなかった。
資料によって異なる点
次の事項は、参照した資料のあいだで記述が分かれています。当サイトではどちらかを正しいものと断定せず、両方を示したうえで扱いを明記します。
三代目の死後、團十郎の名跡が空白だった年数
三代目のページは「以後十年余りの空白」とする。
四代目のページは「12年間空白だった」とする。
当サイトの扱い
同じ成田屋公式のなかで年数の言い方が異なります。本文では出典ごとの言い方をそのまま用い、機械的に統一していません。三代目の没年(寛保二年/1742)と四代目の襲名(宝暦四年/1754)のあいだに空白があったことは、どちらの記述でも変わりません。
現在にも残る影響
三代目の死後、名跡には十年余りの空白があった。市川團十郎の名は、血筋の順に自動的に渡されてきたものではない。
三代目自身が門弟の家からの養子であり、次の四代目もまた養子として迎えられている。