昭和から平成へ
十二代目
市川團十郎
家の芸を磨き、劇場を海の外へひらく
- 生没年
- 1946-08-06–2013-02-03
- 團十郎を名乗った期間
- 1985-04–2013-02-03
- 襲名時の年齢
- 38
- 前名・俳名
- 堀越夏雄(本名)/市川夏雄(初舞台の名)/六代目市川新之助(1958年に襲名)/十代目市川海老蔵(1969年に襲名)/柏莚(俳名)/三升屋白治(脚本の筆名)
30秒で分かる、この代の團十郎
十一代目の長男。父の急逝により十九歳で後ろ盾を失いながら精進を重ね、昭和四十四年に十代目市川海老蔵、昭和六十年四月から六月の歌舞伎座で十二代目團十郎を襲名した。歌舞伎十八番を家の芸として磨き、パリ・オペラ座をはじめ海外公演を重ねた。平成二十五年二月三日逝去。
受け継いだもの
十一代目の長男として
成田屋公式は、昭和二十一年(1946)八月、九代目市川海老蔵(十一代目市川團十郎)の長男として生まれたと記す。歌舞伎俳優名鑑は生年月日を八月六日とする。昭和二十八年十月、歌舞伎座『大徳寺』の三法師で市川夏雄と名のり初舞台を踏んだ。
十九歳で後ろ盾を失う
歌舞伎俳優名鑑は、昭和三十七年の父の襲名当時は成田屋一門は順風満帆だったが、わずか三年後の急逝により、弱冠十九歳で大きな後盾をなくした新之助はただ一人きびしい歌舞伎界の荒波に耐えることになったと記す。
歌舞伎俳優名鑑は、「家の芸の歌舞伎十八番だけは、誰にも負けたくありません。そのために渾身の力をこめて勉強いたします」という本人の言葉を伝える。
成田屋公式の『團十郎事典』は、七代目を事実上の流祖とする市川流について、九代目が基礎と方針を固め、長女の二代目翠扇に受け継がれ、のちに当代が宗家となったと記す。
生み出した・変えた・復活させたもの
成田屋公式は、昭和六十年(1985)四月から六月まで歌舞伎座の三か月に亘る襲名披露公演で十二代目市川團十郎を襲名したと記す。歌舞伎俳優名鑑は披露狂言を『勧進帳』の弁慶、『助六』の助六ほかとする。
海外公演を重ねる
成田屋公式は、一九八二年と一九八五年のアメリカ、一九八八年のオーストラリア、一九八九年のヨーロッパ、二〇〇四年のパリ、二〇〇七年のパリ・オペラ座、二〇〇九年のモナコなどの海外公演を挙げる。二〇〇七年にはフランス芸術文化勲章のコマンドゥールを受章した。
文化デジタルライブラリーは、歌舞伎十八番の『外郎売』が大正十一年(1922)に独立した作品として復活され、昭和五十五年(1980)には十二代目團十郎が復活していると記す。歌舞伎俳優名鑑は、国立劇場での『象引』に新しい工夫を加えて面白く見せたとする。
休演をはさんで書いた『黒谷』
歌舞伎俳優名鑑は、平成十六年(2004)五月の十一代目海老蔵襲名興行の舞台で白血病により倒れ、療養中に『熊谷陣屋』の幕切れで蓮生となった熊谷のその後を『黒谷』という脚本にし、退院ののち舞踊劇として上演したと記す。筆名は三升屋白治。闘病の記録は自著『團十郎復活』としても残された。
代表的な芸・役・演目
成田屋公式が主な出演作品の筆頭級に挙げる役。歌舞伎俳優名鑑は、その風格と強さやさしさが一体となった最高のもので、カッと眼をむく力強い美しさのなかにほのぼのとしたあたたかさがあったと評する。
昭和四十四年(1969)十一月、歌舞伎座でこの役と『勧進帳』の富樫を勤め、十代目市川海老蔵を襲名した。昭和六十年の十二代目襲名でも披露狂言に選ばれている。
『義経千本桜』忠信・知盛・権太
成田屋公式は主な出演作品として、『義経千本桜』の忠信・知盛・権太の三役を挙げる。
歌舞伎俳優名鑑は、これらの歌舞伎十八番にも十二代目の人柄がもたらす自然体の愛嬌が備わっていたと記す。
歌舞伎以外の舞台
成田屋公式は『華岡青洲の妻』の華岡青洲、『眠り王』の月の大王実は日本の帝などを挙げる。テレビではNHK大河ドラマ『花の乱』の足利義政などを勤めた。
その時代の歌舞伎
古典芸能の継承があらためて重視される一方で、新しい取り組みが次々と行われた時期にあたる。日本芸術文化振興会は、現代劇の作家や演出家との連携、漫画やアニメ作品を原作とする新作の上演、歌舞伎専用の劇場以外での公演などが活発になり、歌舞伎がこれまで以上に幅広い客層から親しまれていると記す。歌舞伎は二〇〇五年にユネスコの傑作宣言を受け、二〇〇八年に人類の無形文化遺産の代表的な一覧表に記載された。海外公演が定期的に行われるようになったのも、この代が團十郎を名乗った時期と重なる。
同じ頃、世の中では
- 2005–2008世界
歌舞伎がユネスコの無形文化遺産に
日本芸術文化振興会は、二〇〇五年にユネスコにより「人類の口承及び無形遺産に関する傑作」として宣言され、二〇〇八年に「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に記載されたと記す。
- 2010-04–2013-04日本社会
歌舞伎座の建て替え
松竹「歌舞伎座の歴史」は、昭和二十六年に復興開場した第四期の歌舞伎座が平成二十二年(2010)四月の興行をもって建替えのため休館し、平成二十五年(2013)二月に第五期が竣工、三月に開場式、四月に新開場したと記す。この代が没したのは第五期の竣工と同じ月にあたる。
- 1985–2013芸と演目
劇場の外へ広がる歌舞伎
日本芸術文化振興会は、現代劇の作家や演出家との連携、漫画やアニメ作品を原作とする新作の上演、歌舞伎専用の劇場以外での公演などが活発になっていると記す。
時代との接点
- 1989-09世界
一九八九年秋のヨーロッパ公演
成田屋公式は、平成元年(1989)九月にブリュッセル・東ベルリン・ドレスデン・ウイーンを回るヨーロッパ公演を行ったと記す。訪問先と同年十一月以降の欧州情勢との関係を示す出典は確認できていないため、事実の記載にとどめる。
- 2007-03世界
パリ・オペラ座での『勧進帳』
成田屋公式は、平成十九年(2007)三月に『パリ オペラ座 松竹大歌舞伎』(ガルニエ宮)を行ったと記す。歌舞伎俳優名鑑は、パリのオペラ座での『勧進帳』は息子の海老蔵を相手に弁慶と富樫の二役を競演する夢を果たしたものだったと伝える。同年、フランス芸術文化勲章のコマンドゥールを受章している。
- 2012日本社会
日本芸術院会員に
成田屋公式は、平成二十四年(2012)に日本芸術院会員に就任したと記す。平成十一年(1999)には伝統歌舞伎保存会理事、平成十三年(2001)には文化審議会委員に就任しており、古典の継承を制度の側から支える立場にも就いていた。
- 2012-12-17芸と演目
最後の舞台
松竹「歌舞伎美人」は、平成二十四年(2012)十二月十七日、京都四條南座「吉例顔見世興行」での『梶原平三誉石切』の梶原平三、『船弁慶』の武蔵坊弁慶が最後の舞台となったと記す。同社は平成二十五年二月三日午後九時五十九分に都内の病院で逝去したこと、享年六十六であることを伝えている。
この代から、次の代へ
「家の芸の歌舞伎十八番だけは誰にも負けたくない」と語ったと歌舞伎俳優名鑑は伝える。空白の時代を経て戻ってきた名跡を、古典の鍛錬と海外公演の両方で確かなものにし、長男の十三代目へ渡した。
資料によって異なる点
次の事項は、参照した資料のあいだで記述が分かれています。当サイトではどちらかを正しいものと断定せず、両方を示したうえで扱いを明記します。
パリ・オペラ座公演(2007)の『勧進帳』で、どの役をどう勤めたか
弁慶と富樫の二役を競演したとする。
弁慶をダブルキャストで勤めたとする。
当サイトの扱い
同じ歌舞伎俳優名鑑のなかで、十二代目の項と十三代目の項の表現が食い違っています。本文では十二代目の項の記述に従っていますが、公演での配役の実際は確認できていません。
『外郎売』を復活させた昭和五十五年(1980)当時の名乗り
昭和五十五年(1980)には十二代目團十郎が『外郎売』を復活させた、と記す。
團十郎の襲名は昭和六十年(1985)四月であり、1980年当時は十代目市川海老蔵を名のっていた。
当サイトの扱い
復活上演の年そのものは食い違っていません。出典が後年の名乗りで遡って呼んでいるため、本文でも出典の表記をそのまま用いています。1980年の時点ではまだ團十郎を名乗っていなかったことを、ここに明示しておきます。
現在にも残る影響
アメリカ・オーストラリア・ヨーロッパ・パリ・モナコと続いた公演は、以後の代にも受け継がれている。
『勧進帳』『助六』『暫』『鳴神』『毛抜』『外郎売』『象引』など、この代が繰り返し勤めた演目が現在の上演につながっている。
長男は二〇〇四年に十一代目市川海老蔵、二〇二二年に十三代目市川團十郎白猿を襲名した。