歌舞伎D-13
07

文化・文政から天保へ

七代目

市川團十郎

家の芸を、十八の演目として形にする

生没年
1791–1859-03-23
團十郎を名乗った期間
1800-11–1832-03
襲名時の年齢
10
前名・俳名
市川新之助(初舞台の名)/五代目市川海老蔵(1832年に改名)/成田屋七左衛門・幡谷重蔵(江戸追放中に用いた名)/白猿・三升・夜雨庵(俳名)
『暫』の鎌倉権五郎に扮した七代目市川團十郎。紅の筋隈を描いた顔で目を見開き、力紙を結った鬘で竹垣の向こうから身を乗り出す大首の摺物
歌川国満『七代目市川團十郎の暫』文政3年(1820)。歌舞伎十八番を制定した七代目の当り役歌川国満『七代目市川團十郎の暫』アムステルダム国立美術館(CC0 パブリックドメイン, Wikimedia Commons)

30秒で分かる、この代の團十郎

六代目の急逝により、わずか十歳で團十郎を継いだ。四代目鶴屋南北の狂言で色悪という役どころを確立する。天保三年、息子に名跡を譲る際、市川家に伝わる演目から十八を選んで刷り物を配った。のちに『勧進帳』初演を機に歌舞伎十八番の呼び名が定着したとされる。

受け継いだもの

  • 十歳での襲名

    五代目の孫にあたる。寛政十一年(1799)五月に六代目が急逝したため、翌十二年(1800)十一月、市村座の顔見世でにわかに七代目團十郎を襲名したと成田屋公式は記す。

  • 『暫』という家の芸

    寛政八年(1796)十一月、河原崎座の顔見世で、わずか六歳で初めての『暫』を演じた。

  • 俳名「白猿」

    成田屋公式は、白猿は祖父の五代目が初めて用いた俳名で、父祖のような名人上手には及ばず「毛が三本足りない」猿だと称したものだと伝える。七代目もこれを用いた。

生み出した・変えた・復活させたもの

  • 歌舞伎十八番の制定

    天保三年(1832)三月、市村座で『助六』を演じ、息子の海老蔵に八代目團十郎を襲名させて自らは海老蔵と改名した折に、『歌舞妓狂言組十八番』という摺物を出版して制定を公表したと成田屋公式は記す。

  • 『勧進帳』の初演

    天保十一年(1840)三月、初代團十郎の百九十年記念興行として初演。成田屋公式はこれを松羽目物の始まりとする。日本芸術文化振興会は、この初演を機に十八の演目があらためて「歌舞伎十八番」と呼ばれ、次第に定着したと説明する。

  • 「色悪」という役どころ

    四代目鶴屋南北の狂言のなかで強烈な個性を発揮し、『東海道四谷怪談』の民谷伊右衛門に代表される、色男でありながら本性は悪人という役どころを確立したとされる。

  • 「團十郎型」の演出

    日本芸術文化振興会は、南北の多くの作品で三代目尾上菊五郎と共演した七代目が、後に「團十郎型」と呼ばれる演じ方を多く残したと記す。

代表的な芸・役・演目

  • 『勧進帳』

    天保十一年(1840)三月初演。松羽目物の始まりとされ、のちに九代目が天覧劇で勤める演目となる。

  • 『暫』

    寛政八年(1796)十一月、河原崎座の顔見世で六歳の初役。

  • 『助六』

    天保三年(1832)三月、市村座。歌舞伎十八番の制定を公表した舞台。

  • 『東海道四谷怪談』民谷伊右衛門

    四代目鶴屋南北作。色悪を代表する役として成田屋公式が挙げる。

  • 『根元草摺引』曾我五郎

    安政六年(1859)、中村座。これを最後に、同年三月二十三日に没した(六十九歳)。

その時代の歌舞伎

文化・文政年間の江戸はさらに人口が集中し、幕府の統制も弱まって享楽的な風潮が強まった。日本芸術文化振興会は、歌舞伎が暦や服飾にまで影響を与えるほど社会に深く根ざし、上方と江戸のあいだで俳優や作者の行き来が増えたと記す。やがて天保の改革が娯楽を厳しく取り締まり、天保十三年(1842)には江戸三座が浅草へ移されて猿若町という新しい芝居町が生まれた。

同じ頃、世の中では

  • 1804–1830日本社会

    享楽的な江戸と、新しい文芸・芸能

    江戸へさらに人口が集中し、幕府による統制も弱まった。新しい文芸や美術、工芸、音楽が次々と生まれ、手軽に楽しめる講談や落語なども盛んになったと日本芸術文化振興会は記す。

  • 1804–1829芸と演目

    四代目鶴屋南北の活躍

    社会の底辺で暮らす人々を赤裸々に描く「生世話物」を確立し、ケレンを多用した怪談物も創造した。複数の物語を混ぜ合わせる「綯い交ぜ」などの手法で、自由な作品を生み出した。

  • 1804–1830メディア

    印刷技術の進歩と、出版と結んだ興行

    多色刷りなど印刷技術の進歩とともに、さまざまな出版物と連携した興行が多くなったと日本芸術文化振興会は記す。役者絵や番付が芝居の外へ広がっていく時期にあたる。

時代との接点

  • 1842-04-06–1842-06-22日本社会

    天保の改革による処罰と江戸追放

    奢侈を禁じる天保の改革により、天保十三年四月六日に南町奉行所へ召喚されて手鎖のうえ家主預かりとなり、六月二十二日には江戸十里四方追放の刑に処せられたと成田屋公式は記す。日本芸術文化振興会も、五代目市川海老蔵が贅沢や奢りを理由に処罰され江戸から追放されたと記している。

  • 1842-06-25日本社会

    成田山新勝寺への寓居

    追放を受けた七代目は成田屋七左衛門と改名し、六月二十五日に江戸を発って成田山新勝寺延命院に寓居したと成田屋公式は記す。家の屋号の由来となった寺が、そのまま身を寄せる場所となった。

  • 1842–1849芸と演目

    上方での旅興行

    その後は大坂に住み、京・大津・桑名などの芝居にも出た。その際は市川海老蔵のほか、市川白猿、幡谷重蔵、成田屋七左衛門などの名を使ったと成田屋公式は記す。

  • 1849-12-26–1850-02-29日本社会

    特赦と江戸への帰還

    嘉永二年十二月二十六日の特赦により追放赦免の沙汰が出て、翌三年正月十六日に江戸へすぐ帰るようにという書状が届き、二月二十九日に江戸へ着いたと成田屋公式は記す。

この代から、次の代へ

十八の演目を選んで刷り物にしたことで、市川家の芸は目に見える「家の芸」となった。『勧進帳』は松羽目物の始まりとなり、のちに九代目が天覧劇で勤める演目にもなる。処罰と追放、流浪を経てなお、名跡と演目は次の世代へ渡された。

現在にも残る影響

  • 歌舞伎十八番

    市川家の家の芸を示す十八の演目。以後、他の俳優の家系も同種の演目群を定めるようになった。

  • 『勧進帳』

    能の様式を取り入れた松羽目物として、今も繰り返し上演されている。

  • 「色悪」という役どころ

    色男でありながら本性は悪人という役柄は、以後の歌舞伎に定着した。