安永・天明から寛政へ
五代目
市川團十郎
「かねる役者」として、團十郎の芸域をひろげる
- 生没年
- 1741–1806-10-30
- 團十郎を名乗った期間
- 1770-11–1791-11
- 襲名時の年齢
- 30
- 前名・俳名
- 松本幸蔵(初舞台の名)/三代目松本幸四郎/市川鰕蔵(1791年の改名)/成田屋七左衛門(隠居後の称)/白猿(俳名)

30秒で分かる、この代の團十郎
四代目の子。父が四代目團十郎を襲名したため三代目松本幸四郎を継ぎ、明和七年に三十歳で五代目を襲名した。荒事に加えて実事・女方・道化・侠客まで芸域を広げ「かねる役者」と呼ばれる。俳名「白猿」は、父祖のような名人には及ばないという謙遜を込めたものと成田屋公式は伝える。
受け継いだもの
宝暦四年(1754)正月、松本幸蔵の名で十四歳の初舞台。同年十一月に父の松本幸四郎が四代目團十郎を襲名したため、その名跡を継いで三代目松本幸四郎となったと成田屋公式は記す。市川と松本の名跡が行き来するなかで育った。
「修行講」での稽古
成田屋公式は、四代目團十郎が深川木場の自宅へ息子の五代目や四代目幸四郎らを集め、演技・型の研究をした集まりを「修行講」と伝える。四代目は自分で演じなくても弟子たちへ示唆することで助力した点も評価されるという。
実悪と景清物
成田屋公式は、五代目は容貌・体格ともに父の四代目とよく似ており、芸風も父に似て、幸四郎時代には景清など実悪系統の役を得意にして認められていたと記す。四代目はとりわけ景清物を得意とし、この役は後に市川家の重要なものとして扱われるようになった。
生み出した・変えた・復活させたもの
「かねる役者」という芸域
成田屋公式は、團十郎襲名後は意識的に実事に精進し、これまでの團十郎が演じなかった純粋な女形の役も勤め、道化・侠客など芸域を広げたと記す。家系図のページはこの代を「かねる役者」と見出しに掲げている。
團十郎として初めての由良之助
『仮名手本忠臣蔵』の由良之助を團十郎として初めて演じたのも五代目だったと成田屋公式は記す。荒事の家の当主が、義太夫狂言の代表作の主要人物を勤めた例にあたる。
早変わりを用いた一人何役
成田屋公式は、その頃出てきた新演出法の早変わりで何役も一人で演じることができたと記す。当時新しかった技法を、いち早く自分の芸域の広さに結びつけた。
成田屋公式は、白猿は五代目が初めて用いた俳名で、二代目・四代目と音は同じくしながらも、父祖のように名人上手に及ばず「毛が三本足りない」猿だと称し、口上にも述べたと伝える。自分の句や随筆の本には「友なし猿」といった題名をつけたという。
口上という話術
成田屋公式は、荒事の総本山である市川家が雄弁術にも優れていたことを忘れてはならないとし、五代目が息子の海老蔵へ六代目を襲名させ自らは鰕蔵と改名した折の口上が大評判になり、それを目当ての客が押し寄せた話を伝える。
代表的な芸・役・演目
『仮名手本忠臣蔵』大星由良之助
團十郎としては五代目が初めて勤めた役と成田屋公式は記す。上演年は確認できていない。
成田屋公式は、勝川春好の絵に、五代目が力士の谷風と吉原の太夫花扇のあいだで『暫』の扮装のまま軍配を構えた図があると伝える。
景清物
幸四郎時代に得意とした実悪系統の役。源氏を恨む平家の勇者・悪七兵衛景清が獄中で妻子と対面し、また牢を破るという、単純な荒事とは一味違う趣向を持つと成田屋公式は説明する。
寛政八年(1796)十一月 都座の一世一代
晩年は病気がちとなり、都座で一世一代の興行を行って引退したと成田屋公式は記す(五十六歳)。事典の「反古庵」の項は、この頃の五代目が客へむかい、隠居してもよい年齢で鏡台の前に座って白粉をつけることを嘆いたと伝える。
その時代の歌舞伎
成田屋公式は、五代目が活躍した安永・天明から寛政にかけての時期を、江戸歌舞伎がまさに開花期であり、演技者としての実力が高く評価される時代だったと記す。日本芸術文化振興会によれば、この頃までに人形浄瑠璃の人気作が次々と歌舞伎へ移されて義太夫狂言が演目の大きな部分を占めるようになり、また常磐津節や富本節といった浄瑠璃が伴奏に取り入れられて、劇的な要素の強い所作事が生まれていた。早変わりのような新しい演出法も現れている。
同じ頃、世の中では
- 1772–1801芸と演目
江戸歌舞伎の開花期
成田屋公式は、安永(1772〜81)・天明(1781〜89)から寛政(1789〜1801)にかけての時期について、江戸歌舞伎はまさに開花期であり、演技者としての実力が高く評価される時代であったと記す。
- —芸と演目
義太夫狂言が演目の大きな部分に
日本芸術文化振興会は、人形浄瑠璃が全盛期を迎えた十八世紀半ばに人気作が次々と歌舞伎へ移されたと記す。『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』は再演を繰り返し、義太夫狂言の三名作と呼ばれるほどになった。
- —芸と演目
所作事の展開と、浄瑠璃の伴奏
日本芸術文化振興会は、常磐津節や富本節などの浄瑠璃が歌舞伎の伴奏に取り入れられ、もともと物語を語る芸能であるために劇的な要素の強い所作事が生まれたと記す。所作事は女方だけでなく立役によっても演じられるようになり、十八世紀後半には『積恋雪関扉』が初演された。
時代との接点
- —日本社会
「江戸三幅対」に数えられる
成田屋公式は、約二百年前に「江戸三幅対」という言葉が街々に広まったとし、当時の人気スターとして五代目團十郎・力士の谷風・吉原の太夫花扇の三人を挙げる。芝居・相撲・遊里という江戸の盛り場を代表する顔として並び称された。
- —メディア
戯作者・烏亭焉馬との交わり
成田屋公式は、『歌舞妓年代記』の編者として知られる烏亭焉馬と義兄弟の契りを結ぶ仲だったと記す。事典は、焉馬の本所相生町の住居が屋根から家具にいたるまで三升の紋をつけるほどの熱狂ぶりで、音を似せて談州楼と自ら名乗り、二人は合作で戯作もものしたと伝える。
- 1791-11芸と演目
六代目への譲名と、鰕蔵への改名
寛政三年十一月、息子の海老蔵に六代目團十郎を襲名させ、自分は鰕蔵と改名した(五十一歳)。成田屋公式は、鰕は天鰕の意味で「祖父や父親の海老には及びません」という遜った気持ちを表す文字であったとし、口上では「親達は名人上手で江戸の飾り海老ですが、自分はザコで鰕蔵を」と述べたと伝える。
- 1796-11–1806-10-30日本社会
反古庵での隠居と、句会半ばの死
成田屋公式は、寛政八年十一月の引退後、本所牛島の反古庵に隠居して成田屋七左衛門と称し、世俗を超えた風雅の生活に入って多くの文人と交流したと記す。文化三年十月三十日、前日より催されていた句会半ばに没した(六十六歳)。
この代から、次の代へ
荒事一辺倒ではない「かねる役者」という團十郎像を残した。息子の六代目に名跡を譲ってのちは鰕蔵と名のり、隠居して文人と交わった。俳名「白猿」は七代目に受け継がれ、当代十三代目は名跡そのものに加えている。
資料によって異なる点
次の事項は、参照した資料のあいだで記述が分かれています。当サイトではどちらかを正しいものと断定せず、両方を示したうえで扱いを明記します。
柿色(團十郎茶)を、どの代に結びつけるか
『暫』の主人公の素襖に柿色を用いたのは二代目團十郎であり、以後それが荒事の色、市川一門の色になったとする。
五代目が『暫』で柿色の素襖をまとったことから江戸で流行し、その名を取って「團十郎茶」と呼ばれるようになったとする。
出典: コトバンク「団十郎茶」
当サイトの扱い
「荒事の色として定めた代」と「町の流行色として名を残した代」は本来別のことがらであり、両立しうる話です。ただし裏づけが取れていないため、五代目の本文では柿色・團十郎茶に触れていません。用語ページ(/glossary/danjuro-cha)では両方の説を併記しています。なお成田屋公式には「團十郎茶」という語自体が見当たりません。
現在にも残る影響
五代目が初めて用いた俳名。七代目も用い、十三代目は「市川團十郎白猿」として名跡に加えている。
「かねる役者」という評価軸
荒事から実事、女方、道化までを勤め分ける芸域の広さは、以後の團十郎を測る物差しのひとつになった。
役者絵のなかの五代目
成田屋公式は、写楽の描く「竹村定之進」のモデルは五代目であり、息子に六代目を継がせて鰕蔵を名のった後のものだとする。この絵は昭和三十一年発行の十円切手にもなった。